「職業としての小説家」でわかった村上春樹の仕事術とは?

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職業としての小説家

村上春樹の小説を読んだことがありますか?

この質問に、1冊もないと答えるのが恥ずかしくなるほど偉大な小説家ではないでしょうか。その村上春樹の仕事術と、小説家になった経緯をシェアします。

職業としての小説家

初版:2016年10月01日

出版社:新潮文庫

著者:村上 春樹

村上春樹の仕事術とは?

小説家には、「資格」が必要だといいます。もちろん、国家資格ではありません。

小説をひとつふたつ書くのは、それほどむずかしくはない。しかし小説を長く書き続けること、小説を書いて生活していくこと、小説家として生き残っていくこと、これは至難の業です。普通の人間にはまずできないことだ、と言ってしまってもいいかもしれません。そこには、なんと言えばいいのだろう、「何か特別なもの」が必要になってくるからです。それなりの才能はもちろん必要ですし、そこそこの気概も必要です。また、人生のほかのいろんな事象と同じように、運やめぐり合わせも大事な要素になります。しかしそれにも増して、そこにはある種の「資格」のようなものが求められます。これは備わっている人には備わっているし、備わっていない人には備わっていません。

そうです。小説家には、小説を書き続ける能力(資格)が必要なのです。村上春樹は30年以上も小説を書き続けています。そして、30年前も今もベストセラーを連発しています。こんな小説家は、他にいないです。

村上春樹はこれだけ長い間、どのように、この資格を維持しているのでしょうか?本書には、3つの仕事術が書かれていましたので、紹介します。

  • ルーティンを固める
  • 肉体を鍛える
  • 最善を尽くしきる

どういうことか、1つずつ紹介します。

ルーティンを固める

小説家は、不規則な生活をして、夜中に原稿を書いている。締切前になると、何日も徹夜で書き上げる。

そんなイメージはないでしょうか?

わたしには、ありました。ただ、村上春樹はまったく正反対です。規則正しく、一定のペースで原稿を書いています。まさにルーティンのように原稿を書いているのです。

そして、このルーティンに対するこだわりが、とても強いです。長編小説を書くときは、環境を整備するため、わざわざ海外に行くそうです。

僕はある時期から、長編小説は海外で書くことが多くなったのですが、これは日本にいるとどうしても雑用(あるいは雑音)があれこれ入ってくるからです。外国に出てしまうと、余計なことは考えずに執筆に気持ちを集中できます。とくに僕の場合、書き始めの時期にはー長編小説執筆のための生活パターンを固定させていく大事な時期にあたるわけですがーどちらかといえば日本を離れた方がいいみたいです。

簡単に「海外で書く」と書いていますが、長編小説の執筆は長期間に渡ります。半年や一年、長いものだと二年以上かかる小説もあるそうです。その間、ルーティンを守るため、ずっと海外生活を続けるそうです。

では、その海外生活で、どのように小説を書いているのでしょうか?

長編小説を書く場合、1日に四百字詰原稿用紙にして、十枚見当で原稿を書いていくことをルールとしています。僕のマックの画面でいうと、だいたい二画面半ということになりますが、昔からの習慣で四百字詰で計算します。もっと書きたくても十枚くらいでやめておくし、今日は今ひとつ乗らないなと思っても、なんとかがんばって十枚は書きます。なぜなら長い仕事をするときは、規則性が大切な意味を持ってくるからです。書けるときは勢いでたくさん書いちゃう、書けないときは休むというのでは、規則性は生まれません。だからタイム・カードを押すみたいに、一日ほぼきっかり十枚書きます。

朝早く起きて、コーヒーを飲みながら、4-5時間執筆をするといいます。そして、引用にあるように毎日十ページの原稿を書いていくそうです。小説というクリエイティブな仕事でも、その過程はルーティンで固められています。

このルーティンを固めるというのが1つ目の仕事術です。

肉体を鍛える

海外生活をし、早起きをする。コーヒーを飲みながら、4-5時間の執筆。毎日十ページの原稿を書く。

これが村上春樹のルーティンです。

しかし、もう1つ重要なルーティンがあります。それは、毎日1時間のランニングです。

つまり肉体的運動と知的作業との日常的なコンビネーションは、作家の行なっている種類のクリエイティブな労働には、理想的な影響を及ぼすわけです。
僕は専業作家になってからランニングを始め(走り始めたのは『羊をめぐる冒険』を書いていたときからです)、それから三十年以上にわたって、ほぼ毎日一時間程度ランニングをすることを、あるいは泳ぐことを生活習慣としてきました。たぶん身体が頑丈にできていたのでしょうか、そのあいだ体調を大きく崩したこともなく、足腰を痛めたこともなく(一度だけスカッシュをしているときに肉離れを経験しましたが)、ほぼブランクなしに、日々走り続けることができました。一年に一度はフル・マラソン・レースを走り、トライアスロンにも出場するようになりました。

本書の中でも、このように語っています。三作目を書き始めたときから、毎日のランニングを欠かしていないそうです。

そして、この運動という肉体作業が、小説という知的作業のプラスになっているといいます。

また最近の研究によれば、脳内にある海馬のニューロンが生まれる数は、有酸素運動をおこなうことによって飛躍的に増加するというのです。有酸素運動というのは水泳とかジョギングとかいった、長時間にわたる適度な運動のことです。ところがそうして新たに生まれたニューロンも、そのままにしておくと、二十八時間後には何の役に立つこともなく消滅してしまいます。実にもったいない話ですね。でもその生まれたばかりのニューロンに知的刺激を与えると、それは活性化し、脳内のネットワークに結びつけられ、信号伝達コミュニティーの有機的な一部となります。そのようにして学習と記憶の能力が高められます。そしてその結果、思考を臨機応変に変えたり、普通ではない創造力を発揮したりすることができやすくなるのです。より複雑な思考をし、大胆な発想をすることが可能になります。

このように科学的な根拠を引用し、ランニングの効果を説明しています。当たり前ですが、全力で仕事をするには、土台となる身体が健康でなければいけません。

腰が痛くて30分も椅子に座っていられない。こんな状態で、4-5時間の執筆は無理です。虫歯の痛みで汗が噴き出している。こんな状態で、集中することは無理です。

村上春樹は、30歳という若くて健康なときからランニングを始めています。これは重要な将来への投資だったと思います。そして、三十年以上、一流の小説家でいる村上春樹を支える仕事術の1つです。

最善を尽くしきる

イノベーション

何度くらい書き直すのか?そう言われても正確な回数まではわかりません。原稿の段階でもう数え切れないくらい書き直しますし、出版社に渡してゲラになってからも、相手がうんざりするくらい何度もゲラを出してもらいます。ゲラを真っ黒にして送り返し、新しく送られてきたゲラをまた真っ黒にするという繰り返しです。前にも言ったように、これは根気のいる作業ですが、僕にとってはさして苦痛ではありません。同じ文章を何度も読み返して響きを確かめたり、言葉の順番を入れ替えたり、些細な表現を変更したり、そういう「とんかち仕事」が僕は根っから好きなのです。ゲラが真っ黒になり、机に並べた十本ほどのHBの鉛筆がどんどん短くなっていくのを目にすることに、大きな喜びを感じます。なぜかはわからないけど、僕にとってはそういうことが面白くてしょうがないのです。いつまでやっていてもちっとも飽きません。

最善を尽くしきる村上春樹の仕事ぶりがにじみ出ています。しかし、これは小説を書く過程のごく一部でしかありません。

村上春樹は、どのように小説を書いているのでしょうか?本書に書いてあった小説を書く過程をまとめてみます。

まず、半年から一年をかけて、長編小説の原稿を一度書き上げます。

それから、一週間ほどの時間を空けて、1回目の書き直しを行います。書き上げた小説を頭から読んでいき、ゴリゴリと書き直すのです。小説を書く間に整合性の取れなくなった部分などを修正したり、削除したり、追加したりするといいます。

そして、1回目の書き直しが終わってから、1ヶ月ほど時間を取ります。そのあと、1回目よりも細かな部分を修正していくといいます。

つぎに、奥さんに読んでもらい、意見をもらいます。意見を言われた箇所は、必ず修正します。言われた通りに修正する場合もあれば、真逆に修正する場合もあるそうです。

そのあとに、出版社に原稿を持ち込みます。さきほど、引用したゲラの話は、この出版社に原稿を持ち込んだあとのことです。なので、1つの長編小説を書き上げるには二年か三年はかかります。

そんなに長期間の仕事に対しても、最後の最後まで集中力が切れない。これでいいや、と投げやりにならない。最後の瞬間まで、最善を尽くし切る。本当に尊敬します。これが村上春樹の3つ目の仕事術です。

以上、村上春樹の仕事術の紹介でした。

なぜ、村上春樹は小説家になったのか?

猫

神宮球場でヤクルトと広島の試合を観ているときに、突然思い立ったといいます。そのときのことを、こう回想しています。

そのときの感覚を、僕はまだはっきり覚えています。それは空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止められたような気分でした。どうしてそれがたまたま僕の手のひらに落ちてきたのか、そのわけはよくわかりません。そのときもわからなかったし、今でもわかりません。しかし理由はともあれ、とにかくそれが起こったのです。それは、なんといえばいいのか、ひとつの啓示のような出来事でした。英語にエピファニー(epiphany)という言葉があります。日本語に訳せば「本質の突然の顕現」「直感的な真実把握」というようなむずかしいことになります。平たく言えば、「ある日突然何かが目の前にさっと現れて、それによってものごとの様相が一変してしまう」という感じです。それがまさに、その日の午後に、僕の身に起こったことでした。それを境に僕の人生の様相ががらりと変わってしまったのです。デイブ・ヒルトンがトップ・バッターとして、神宮球場で美しい鋭い二塁打を打ったその瞬間に。

ということで、突然のひらめきが空から降ってきて、小説家になったといいます。村上春樹ほどの人物だと、そういうこともあるのでしょうか。

ただ、小説家として目覚める要因となった経験も2つ本書では紹介されていました。1つは、大量に読書をしたこと。もう1つは、20代でのジャズ喫茶の経営したことです。

1つ目の大量の読書は、これから小説家を志す人にも、オススメしています。

とにかく年若い時期に、一冊でも多くの本を手に取る必要があります。すぐれた小説も、そうれほど優れていない小説も、あるいはろくでもない小説だって(ぜんぜん)かまいません。とにかくどしどし片端から読んでいくこと。少しでも多くの物語に身体を通過させていくこと。たくさんの優れた文章に出会うこと。ときには優れていない文章に出会うこと。それがいちばん大事な作業になります。小説家にとっての、なくてはならない基礎体力になります。

そして、村上春樹自身も幼少期から大量の読書をしてきたといいます。

もし本というものがなかったら、もしそれほどたくさんの本を読まなかったなら、僕の人生はおそらく今あるものよりもっと寒々しく、ぎすぎすしたものになっていたはずです。つまり僕にとっては読書という行為が、そのままひとつの大きな学校だったのです。それは僕のために建てられ、運営されているカスタムメイドの学校であり、僕はそこで多くの大切なことを身をもって学んでいきました。

学校の授業そっちのけで読書に勤しんでいたようです。そして、ジャズ喫茶の経営が行き詰まっているときも本は手放せなかったといいます。こうした土台が小説家として目覚める要因となったのだと思います。

また、村上春樹は大学卒業後、就職はせず、ジャズ喫茶を経営しています。その経験により、20代で大人になったと述べています。

好きなことをしているとはいえ、ずいぶん借金を抱えていたので、それを返済していくのが大変でした。銀行からも借りていたし、友だちからも借りていた。でも友だちから借りたぶんはすべて、数年できちんと利子を付けて返済しました。毎日朝から晩まで働き、食べるものもろくに食べないでちゃんと返した。当たり前のことですけど。当時は僕らー僕らというのは僕と奥さんのことですがーずいぶんつつましい、スパルタンな生活を送っていました。家にはテレビもラジオもなく、目覚まし時計すらなかった。暖房器具もほとんどなく、寒い夜には飼っていた何匹かの猫をしっかり抱いて寝るしかありませんでした。猫の方もけっこう必死にしがみついていました。

また、こんな苦労もあったそうです。

お金

銀行に月々返済するお金がどうしても工面できなくて、夫婦でうつむきながら深夜の道を歩いていて、くちゃくちゃになったむき出しのお金を拾ったことがあります。シンクロニシティと言えばいいのか、何かの導きと言えばいいのか、不思議なことにきっちり必要としている額のお金でした。その翌日までに入金しないと不渡りを出すことになっていたので、まったく命拾いをしたようなものです(僕の人生にはなぜかときどきこういう不思議なことが起こります)。本当は警察に届けなくてはいけなかったんだけど、そのときはきれいごとを言っているような余裕はとてもありませんでした。すみません……と今から謝ってもしょうがないんですが。まあ、別のかたちで、できるだけ社会に還元したいと思っています。
苦労話をするつもりはないんですが、要するに二十代を通して、僕はかなり厳しい生活を送っていたんだということです。

そして、29歳で小説を書き始め、2作品はジャズ喫茶を経営する傍ら書き上げました。

しかし、3作目を書くときに、もっと本格的に集中して小説を書きたいという意欲が湧いてきたといいます。そして、大きな決断を下します。

ですからこの『羊をめぐる冒険』を書き始める前に、僕はそれまで経営していた店を売却し、いわゆる職業作家になりました。当時はまだ文筆活動よりは、店からの収入の方が大きかったんですが、それを思い切って捨てることにしました。生活そのものを、小説を書くことに集中させたかったからです。自分の持っている時間をすべて小説の執筆にあてたかった。いくぶん大げさに言えば、後戻りできないように「橋を焼いた」わけです。
まわりの人はほとんど全員「そんなに早まらない方がいいよ」と反対しました。店はけっこうはやってきたところだったし、収入も安定しているし、今それを手放すのはあまりにももったいないじゃないか。店の経営は誰かにまかせて、自分は小説を書いていればいいじゃないか、と。たぶん当時はみんな、僕が小説だけで食べていけるとは思っていなかったのでしょう。でも僕には迷いはありませんでした。僕は昔から「何かをやるからには、全部とことん自分でやらないと気が済まない」というところがあります。「店は適当に誰かにまかせて」みたいなことは、性格的にまずできません。

さらに、こう続きます。

ここが人生の正念場です。思い切って腹をくくらなくてはならない。とにかく一度でいいから、持てる力をそっくり振り絞って小説を書いてみたかった。駄目なら駄目でしょうがない。また最初からやり直せばいいじゃないか。僕は店を売却し、集中して長編小説を書くために東京の住まいを引き払いました。都会を離れ、早寝早起きの生活を送るようになり、体力を維持するために日々ランニングをするようになりました。思い切って、生活を根っこから一変させたわけです。

小説家として売れる前の、この先どうなるかわからないという時期のことですから並々ならぬ覚悟だったんだろうと思います。

しかし、この決断から村上春樹という偉大な小説家が生まれていったのです。

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